神が全能とは、どういう意味ですか?
神には何でもできるってことですか?
こんな疑問にお答えします。
✔本記事の内容
- 神の全能とは?
- 神にはできないことはない【旧約・新約聖書の教え】
- 神にはできないこともある?【神は自分の属性に従って全能の力を発揮する】
- できないことがあるなら、全能の神ではないんじゃない?
- 全能の神 エルシャダイ
- 神の全能はどのように発揮されたのか?【創造、イエスの誕生、十字架の死】
- 父なる神の全能【わたしたちが神の全能を信頼できる究極の理由】
✔本記事の信頼性
- 筆者は、クリスチャン歴40年以上
- 約20年間の牧師としての経歴
- キリスト教の主な著作を読んで得た知識
この記事を読むと、神が全能であるとは、どういう意味なのかがよく分かります。
カンタンに解説しますので、ぜひ、最後までご覧ください。
神が全能であるとは、どういう意味ですか?【キリスト教Q&A】
神が全能であるとは、「神が自分の望むことを何でも行うことができる」という意味です。
「自分の望むこと」という部分が特に大切です。
(詩篇135篇6節)
わかりやすく解説していきます。
神には、なんでもできないことはありません【旧約・新約聖書の教え】
旧約聖書も新約聖書も、神は全能であるとはっきり教えています。
神が全能の神であるというのは、聖書全体の一貫した教えです。
ただ、こういった聖書の記述から、神の全能が「何でもできる力」と説明されることがあります。
神の偉大な力のことをカンタンに分かっていただくのに便利ですから、とりあえず、わたし自身もそんなシンプルな説明をすることがあります。
しかし厳密に言えば、「何でもできる力」というのは説明不足です。
神にはできないこともあるからです!
神にはできないこともある?【神は自分の属性に従って全能の力を発揮する】
たとえば、神は自殺できませんし、嘘(うそ)をつくこともできません。
なぜなら、これらの行いは、神自身の性質・属性(ぞくせい)に反するからです。
神はいつも自分の完全に道徳的な人格に従って、その全能の力を用います。
神が最もきよく、愛に満ち、真実な人格に反して、気まぐれに全能の力をふるったり、愛のないことをしたり、不正を行なったり、一貫性のない行動をとることは決してありません。
聖であり、愛に満ちた神が決して望まないことがあるため、神にはできないこともあるのです。
神は有名な十戒の第6戒で、
とお命じになりました。
全ての命は命の源である神が与えたものであり、神は自分が与えた命を奪(うば)うことを禁じました。
その同じ神が自ら命を絶つことを望むはずがありません。
ですから、神は自殺できないのです。
そもそも、全ての命の源である神、命そのものである神が自らの命を絶つこと自体が不可能です。
同じように、神は真実であるため、嘘(うそ)をつけません。
神は自分の属性に従って全能の力を発揮するのです。
(詩篇135篇6節)
できないことがあるなら、全能の神ではないんじゃない?【漫画やゲームの神とは違います】
できないことがあるなら、全能の神ではないんじゃない?
と思う方もいるでしょう。
おそらく、こういう質問を抱く方が思い描いているのは、漫画やアニメ、ゲームに登場する、いわゆる「全能の神」のイメージではないかと思われます。
人間が想像し、考え出した「全能の神」は、何でもできる力を持っていますが、愛の神ではなく、神にふさわしい道徳を持っていないため、いつ何をしでかすか分からない恐ろしさがあります。
聖書の教える神は、そういう「暴君、悪い王様」としての全能の神ではありません。
あるいは、ギリシャ神話に登場する神々も、神としての力を持つだけではなく、人間以上に人間臭い人格を持っているため、過ちや失敗を犯すことがあります。
人間以上の道徳を持っていない神々を心から信頼するのは難しいことです。
しかし、聖書の教える神は、最もきよく、愛に満ち、真実な方であり、全能の力をその性質・属性に従って発揮するため、わたしたちは心から信頼できるのです。
たとえば、
- 最もきよく、愛に満ちた神は悪いことをするために全能の力を使いません。
- 逆に、神は聖書の中で私たちに約束してくださったことを真実に守るために、全能の力を用いて実現してくれます。
聖書の神は、救い主イエス・キリストが、
よいかたはただひとりだけである。(マタイによる福音書19章17節)
と断言なさった神です。
悪いことは決して望まず、その結果、することができない、完全に良い方です。
これほどわたしたちが信頼できる方がこの世に他にいるでしょうか?
神にできないことが現実には確かにあります。
しかしそれは、わたしたちを失望させるのではなく、全能の神へのわたしたちの信頼感をグッと高めてくれるのです。
神には自分の性質・属性に従ってできないこともありますが、それはわたしたちにとって良いことなのです。
全能の神 エル・シャダイ
神は自分が全能であることを旧約聖書の神の御名『エル・シャダイ』によって明らかにしました。
聖書の最初の創世記17章1節で、神はユダヤ人の先祖アブラム(後のアブラハム)に現れ、自分が全能の神(旧約聖書の原語ヘブライ語では、『エル・シャダイ』)であると語りました。
『エル・シャダイ』という神の名は、神の偉大さを強調しています。
そして、神こそが神を信じる者たちの祝福と慰めの源であることを表しています。
それでは、神はアブラムに具体的にどんなことをしたのでしょうか?
創造主にして、主権者である神は、限りない謙遜(けんそん)によって、自分が造ったアブラムの友だちになりました。
幼稚園の先生(大人)は園児(子ども)に話しかける時、身をかがめて、その子と目線を合わせて、優しい態度で、その子に分かる言葉で語りかけるでしょう。
同じように、神は自分をアブラムのレベルにまで下げて、アブラムとコミュニケーションをとったのです。
そして、神はアブラムに子どもを与えると約束しました。
神はやがてアブラムの子孫として生まれる救い主イエスを通して、全人類を罪から救おうと考えていたからです。
その時すでに、アブラムも妻のサライ(後のサラ)も、人間の常識では子どもを産むことが不可能な年齢に達していました。
しかし神はアブラムとサライ夫婦に約束した通り、全能の力を発揮して高齢のサライが妊娠できるようにし、子どもイサクをアブラム夫妻に与える奇跡を行なったのです。
神は全能の力を発揮して、わたしたちを救い主イエスによって罪から救う「救いの計画」を歴史の中で進めてくれました。
神の全能はどのように発揮されたのか?【創造、イエスの誕生、十字架の死】
神の全能が発揮された具体例を旧約聖書と新約聖書からさらに2つ厳選してご紹介しましょう。
①世界の創造
創造主は無(何もない状態)からこの宇宙を創造しました。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。 (創世記1章3節)
神の全能の力は、この世界とその中に生きるわたしたち人間、動植物を造った神の創造の業(わざ)に発揮されたのです。
②神の子イエスの誕生、十字架の屈辱に満ちた死
約2000年前の最初のクリスマス、神の子は天国の栄光を捨て、わたしたちを罪から救うために人として地上に生まれました。
神の全能の力は、神の子が処女マリアの胎内に宿り、人として生まれた奇跡に鮮やかに示されました。
(ルカによる福音書1章35節)
イエスには罪が全くありませんでした。
しかしイエスは、わたしたちの罪を背負い、わたしたちの罪の罰を身代わりに受けるために自ら進んで十字架で死んだのです。
全能の力を持つ栄光の神の子イエス・キリストはこの世のあらゆる悪と苦しみを経験し、ついに無力な人間としてみじめで恥ずかしい十字架で殺されました。
神の子イエスの十字架こそ、この世界の歴史の中で生じた最もあり得ない出来事だったのです。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
(ピリピ人への手紙2章6-8節)
神の全能の力は、十字架の死に至るまでの神の子イエスの愛の忍耐の中に最大限に発揮されました。
神の全能の力は、神の子がわたしたちを罪から救うために無力な一人の人間となり、弱さの内に死んでいくという絶対あり得ない出来事の中に、極限まで示されたのです。
聖書の教える全能の神と、人間が考え出す「全能の神」のイメージが決定的に違うのは、この点です。
人間が考え出す全能の神は、その力を自分のために使うでしょう。
聖書の神は自分のために全能の力を使いませんでした。
神自身であるイエスは、生まれつき創造主から離れて生きているわたしたちをそれでも愛して、罪とその結末である永遠の滅びから救うために、自分が十字架の上で苦しみ、死ぬために全能の力を使ったのです。
神の全能は愛の全能なのです。
父なる神の全能【わたしたちが神の全能を信頼できる究極の理由】
神はその全能の力を最もきよく、愛に満ち、真実な性質・属性に従って用いると解説してきました。
聖書は、神の全能の力を特に父なる神と関係させています。
キリスト教信仰の要約として、カトリックとプロテスタントが伝統的に使用する「使徒信条」も、「全能の父なる神を信ず」と述べて、神の全能を父なる神と結び付けています。
聖書が教える神の全能は、わたしたちを愛してやまない父なる神の全能であって、それ以外の何者かの全能ではないのです!
ですから、わたしたちは神の全能を信頼できます。
全能の力を持つ全宇宙でただ一人の方は、わたしたちを罪から救うために自分の子イエスさえ犠牲とすることを惜しまなかったほどにわたしたちを愛している天の父だからです。
この事実を知る時、わたしたちが抱く全能のイメージはガラッと変わります。
そして、人間が考え出すネガティブな全能のイメージから完全に解放されるでしょう。
神の全能とは、いつその力を使ってわたしたちに災いをくだすかもしれない、恐ろしく、不気味なものではありません。
神が聖書の中でわたしたちに与えている数々の素晴らしい約束を真実に実現する力こそ、神の全能なのです。
わたしたちが神の全能をイエス・キリストの父なる神の全能と考えるとき、わたしたちは神の全能をポジティブに、喜びと感謝の心で受け止められるでしょう。
愛の神が望むことを何でも実現できる力を持っているから、わたしたちは人類救済計画が必ず完成するという確かな希望を持てます。
自分自身に弱さや欠けがあり、どれだけ失敗したとしても、自分自身ではなくて、全能の神を見上げているので、必ず神がその全能の力を働かせて天国まで助け導いてくれると確信できます。
わたしたちが神の全能を信頼できる究極の理由は、わたしたちのために自分の子イエスを十字架で犠牲としてくれたほどにわたしたちを愛している父なる神の全能であるからです。
まとめ:全能の父なる神を信頼して生きてゆきましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがでしたか。
この記事では、
- 神の全能とは?
- 神にはできないことはない【旧約・新約聖書の教え】
- 神にはできないこともある?【神は自分の属性に従って全能の力を発揮する】
- できないことがあるなら、全能の神ではないんじゃない?
- 全能の神 エルシャダイ
- 神の全能はどのように発揮されたのか?【創造、イエスの誕生、十字架の死】
- 父なる神の全能【わたしたちが神の全能を信頼できる究極の理由】
について解説してきました。
神の全能は、
- きよく、愛に満ちた神が望むことを何でも行う力であるため、
- できないこともあります(自殺や嘘(うそ)など)。
- 天地創造、イエスの誕生、十字架などで鮮やかに示されました。
- 父なる神の全能であるため、わたしたちは心から信頼できます。
イエス・キリストの父なる神はわたしたちのために自分の子イエスを犠牲とするほどにわたしたちを愛してくれています。
全能の父なる神を信頼して生きてゆきましょう!
この記事を読んで、イエス・キリストや聖書についてもっと知りたい方は、ぜひ、他の記事も読んでみてください↓↓