聖書に由来することわざや言葉がもっとあれば知りたいです。
分かりました。
聖書から取られたことわざ・言葉をさらに5つ紹介しますね。
この記事を書いているわたしは、クリスチャンの家に生まれ育ち、プロテスタントの牧師になるための神学校を卒業後、約20年間キリスト教会で牧師として働いてきました。
このようなわたしが上記のリクエストにお答えします。
ぜひ、最後までご覧ください。
【カンタン解説】聖書から取られたことわざ・言葉10選【後編】
今回は聖書に由来することわざ・言葉をさらに5つ紹介します。
⑥笛吹けど踊らず マタイによる福音書11章16-17節
聖書から取られたことわざ・言葉の6つ目は「笛吹けど踊らず」です。
普通このことわざは、「人々を何かに取り組ませようと、あらゆる手段を試みて努力したにもかかわらず、それに対する反応が全く見られず、人々が行動を起こさない状況のたとえ」という意味で使われています。
具体的には、次のように使用されています。
「一生懸命に準備したプレゼンテーションを行っても、聴衆が何の反応も示さず、質問や拍手が全くない。まるで笛吹けど踊らずという状況だ。」
「新商品を宣伝しても、客は無関心で手に取ることもない。努力が報われず、まるで笛吹けど踊らずという感じだ。」
実は笛吹けど踊らずは、元々聖書の中のイエス・キリストの言葉です。
「16: 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
17: 『わたしたちが笛を吹いたのに、/あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、/胸を打ってくれなかった』/と言うのに似ている。」
(マタイによる福音書11:16-17)
ここでイエスは、2つのグループの子どもたちの間でかわされるやりとりを例に用いて、当時の人々の間違った態度を指摘しています。
ある子どもたちは、もう一方のグループが笛の音に合わせて喜び踊らないと文句を言い、もう一方のグループは、自分たちが悲しげな歌を歌っても最初のグループの子どもたちは全く嘆き悲しまないとぶつぶつ不平を言うのです。
同じように、約2000年前のユダヤのある人々は、預言者ヨハネが荒野で厳しい生活を送りながら、自分たちに人生を見つめ直して神を信じる生活を送るようにと勧めたとき、自分たちの生活を改めるのが嫌だったため、ヨハネの禁欲的な生活と教えを「悪霊に取りつかれている」と非難しました。
ところが、その後で救い主イエスが現れ、ヨハネと対照的に神の国の喜びに満ちた教えを語ったとき、人々はイエスの教えも受け入れようとはしなかったのです。
イエスが当時見下されていた徴税人や罪人に対して差別や偏見を持たず、いっしょに食事を食べたり飲んだりしている姿を人々は見て、「大食漢(たいしょくかん)で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」とイエスを非難したのです。
どちらの場合も、当時の人々は神が送った預言者や救い主のメッセージに耳を傾け、ふさわしい応答をすることはしませんでした。
新商品を何でも買うかどうかはともかく、神がわたしたちを愛して送ってくださった救い主イエスの教えは、ぜひ一度、新約聖書を読んで、知ってほしいと願っています。
⑦求めよさらば与えられん マタイによる福音書7章7-11節
聖書に由来することわざ・言葉の7つ目は「求めよさらば与えられん」です。
「物事を達成するには、ただ待つのではなく、自分から積極的に行動することが重要。そうすれば、結果は自然とついてくる」という意味でよく使われています。
「求めよさらば与えられん」は、元々、聖書の中のイエスの言葉です。
7: 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8: すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
9: あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
10: 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
11: このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 (マタイによる福音書7:7-11)
「求めよさらば与えられん」という言葉で、イエスは神へ祈るときの心構えについて教えたのです。
「あきらめることなく祈り続けるなら、親が子を愛し、その願いをかなえるように、天の父である神が一番良いタイミングで、一番良い方法でわたしたちの祈りをかなえてくださる」と、イエスは語ったのです。
夢や目標に向かって努力し続けることが大切なのは、言うまでもありません。
ただ、天の父なる神がわたしたちに必要なものを与えてくださると信頼して祈り続けながら、そうしていただきたいと願います。
⑧人はパンのみにて生きるにあらず マタイによる福音書4章4節
聖書から取られたことわざ・言葉の8つ目は、「人はパンのみにて生きるにあらず」です。
「人間は、衣食住が与えられ、物質的に不自由がなくなればそれで心が満たされるのではなく、精神的にも満たされることを求め、必要としている」という意味で使われています。
元々は聖書の中のイエス・キリストの言葉です。
厳密に言えば、ここでイエスは旧約聖書の言葉を引用しつつ、人間が真に健やかに生きてゆくには、肉体を養うパンだけではなく、その霊と心を養う神のことば(聖書)が必要だと語りました。
イエスのこの言葉の背景にあるのは、聖書の人間についての見方です。
聖書は、神が人間をお造りになったと教えています。
つまり、人間は神を信頼し、神といっしょに生きていくようにデザインされました。
ですから、身体の健康と命を維持するためにパンを必要とするのと同じぐらい、霊と心の健康と命を支えるための神のことば(聖書)を必要としているのです。
日本では、「人はパンのみにて生きるにあらず」は本来の文脈から離れ、「人間には肉体の満足だけではなく、精神的な満足も必要」というぐらいに理解されています。
しかし、その精神的な満足は、イエスが語ったように、神のことばを聞き、それによって生かされるところに与えられるのです。
人間が真に健やかに生きるには、神の愛の言葉を聞き、神を信頼して生きてゆくことが不可欠です。
⑨目には目を、歯には歯を 申命記19章21節
聖書に由来することわざ・言葉の9つ目は「目には目を、歯には歯を」です。
この言葉は、「自分が誰かから害を受けたら、同じことを相手にやり返して復讐する。復讐してよい。やられたら、泣き寝入りしないで、やり返すことをすすめる」といった意味で使われています。
「目には目を、歯には歯を」自体がなんとも物騒な響きのする言葉です。
さらに、元の意味が日本では完全に誤解されて使用されています。
元々は旧約聖書の申命記19:21の言葉です。
現代の平和な日本に暮らしているわたしたちからすると、どこからどう見ても物騒な言葉であるのは変わりありません。
ただ、元々「目には目を、歯には歯を」は、積極的に復讐をすすめる意図で定められたルールではなく、全く逆に報復を抑制し、制限する目的がありました。
現代でもそうだと思いますが、人間は相手から何かをされたら、同じだけやり返すのではなく、2倍にしてやり返すところがあります。
そうすると、今度は相手の方も恨んで、何倍もやり返してきます。
結果、復讐がエスカレートしてゆき、歯止めがきかなくなってしまいます。
そのため、「目には目を、歯には歯を」は、人が誰かから傷つけられた場合、その報復は同程度に抑えなければならず、それ以上であってはならないと定めたのです。
もちろん、現代の法律では受け入れられず、わたしたちにとってはやっぱり物騒ではありますが、古代においては際限なく復讐がエスカレートしないように、憎しみの連鎖を断ち切るために重要な意味がありました。
「目には目を、歯には歯を」の方が日本では知られてしまっていますが、イエスがこの言葉の「復讐の制限という真意」をくみ取って語った次の言葉が広まってほしいとわたしは願っています。
38: 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
39: しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 (マタイの福音書5:38-39)
ここでイエスは、わたしたちが不当な暴力や悪に無抵抗に耐えたり、右の頬を打たれたとき、本当に悪人に左の頬を向けることを教えたいのではありません。
悪人に右の頬を打たれた時、左の頬も向けるという極端な例を用いて、イエスがここで教えているのは、要するに「復讐心を捨てる」ということです。
イエスはここで自分独自の教えを語ったというより、「目には目を、歯には歯を」が本来目指していたことをくみ取っているのです。
つまり、復讐心を捨て、報復の連鎖をストップすることこそ、「目には目を、歯には歯を」が本来求めていたことだったのです。
本来の意味でのこの「目には目を、歯には歯を」は、報復と憎しみのエスカレートと連鎖によって争いの絶えない現代世界に必要です。
報復は、国家レベルでも個人レベルでも、何の解決ももたらさないどころか、関係者をさらに不幸にさせるだけです。
「倍返しだ!」が流行り、復讐系のドラマや漫画、アニメが多くの人に好んで視聴される風潮の中で、本来の「目には目を、歯には歯を」の意味を説いたイエスの言葉は大切な意味を持っているのではないでしょうか。
憎しみは、実は憎しみ続ける本人を一番苦しめます。
過去に誰かにされたことを繰り返し頭の中で再生し続けることで、その度に傷ついてしまいます。
仮に復讐に成功したとしても、空しさが後に残り、相手かその関係者に恨まれることでしょう。
イエスが教えた赦しこそ、真の癒しと解決と平和への道です。
⑩汝(なんじ)の敵を愛せよ マタイによる福音書5章43-45節
聖書から取られたことわざ・言葉の最後、10番目は、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」です。
人種差別の解消のための公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師やインド独立の父マハトマ・ガンディーにも深い影響を与えたイエスの「山上の垂訓(すいくん、山上の説教ともいいます)」の一部です。
中央:キング牧師 マハトマ・ガンディー
この言葉は、「自分に好意的な人を愛するのは誰でもできることなので、神があらゆる人を愛するように、自分のことを悪く行ったり、いじわるな態度を取る人にも愛を持って接することが大事」という意味で使われています。
元のイエスの言葉を見てみましょう。
43: 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
44: しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
45: こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」 (マタイによる福音書5:43-45)
イエスの時代のユダヤでは、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられ、それが常識でした。
いつの時代でも、それが常識だと考えられているでしょう。
しかしイエスは、神が教えた「隣人愛」の真意を明らかにし、実は隣人のカテゴリーの中には敵もふくまれていると教えたのです。
そして、イエスは単に敵を愛することを説いただけではなく、敵を愛することを身をもって実行しました。
イエスが十字架につけられたとき、イエスは自分を十字架に釘づけにしたローマ兵、死にかけている自分をあざけり、ののしる人々のために神に祈りました。
33: されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
34: そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
35: 民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
(ルカによる福音書23:33-35)
イエスは自分の敵の罪が赦されるように天の父なる神に祈ったのです!
なんという愛でしょうか!
しかも聖書のギリシャ語原典によると、イエスは一回祈っただけではなく、十字架で死ぬまで敵のために祈り続けたことが分かります。
イエスの敵をも愛する愛は、当時の人々にも、それ以来2000年間、無数の人々に影響を与えています。
わたしたちも頭をハンマーでガンッと殴られたような衝撃を受けるのではないでしょうか。
争いが絶えず、報復合戦が止まない現代世界に真の平和をもたらすのは、イエスが語り、実践した「汝の敵を愛せよ」しかないでしょう。
もちろん、わたしたちは自分に悪意を抱き、悪口を言い、害を与える人を感情的に「好きになる」ことはできません。
イエスも決して「汝の敵を好きになれ!」とは教えませんでした。
しかし敵が困っているときに、彼らを助ける「愛の行ない」をすることはできます。
わたしたち自身が敵を愛する愛で愛されている事実を知れば、なおさら可能です。
創造主である神は自分を無視し、背を向けて生きているわたしたち人間をそれでも愛し、罪の結末から救うために、神の子、救い主イエスをこの世に送ってくださいました。
そして、イエスはわたしたちの罪の身代わりに十字架の上で死んでくれました。
わたしたちがイエスを信じて、罪ゆるされ、天国と永遠の命を神から受けるためです。
7: 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
8: しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
10: もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 (ローマ人への手紙5:7-8,10)
わたしたち自身が敵を愛する愛で愛されています。
その事実を知るとき、わたしたち自身も敵を愛する者へと変えられてゆくのです。
わたしたちが神にしてきたことの方が、他の人たちがわたしたちにしてきたことよりも実はひどいのです。
自分を造り、生かしてくれている神を無視し、存在を否定(殺)してきました。
そんなわたしたちを愛してくれる神の愛の大きさに圧倒されませんか。
まとめ 聖書を読み、混迷(こんめい)の現代を生きる賢者として歩んでいきましょう!
最後までお読みくださり、ありがとうございました。いかがでしたか。
この記事では、聖書から取られたことわざ・言葉をさらに5つ取り上げ、解説してきました。
前編と合わせて、10の日本語のことわざ・言葉とその由来を解説してきました。
きっとこんなにも多くのことわざや言葉が聖書由来だということを知って、驚いたことでしょう。
カトリックの日本宣教開始(1549年)から450年以上、プロテスタントの日本伝道開始(1859年)からは150年以上が経っていますから、聖書の言葉が日本語になっていても不思議ではありません。
ただ、元の聖書の意味から離れて使われているものもあり、「【カンタン解説】聖書から取られたことわざ・言葉10選【前編】【後編】」を今回読んでいただいて、それらの言葉の本来の意味を知っていただけたことでしょう。
他にも数多くの素晴らしい言葉が、聖書にはふくまれています。
聖書は古今東西の無数の人々に愛読され、読者の「人生の羅針盤」となったり、「賢者の生活を送る知恵」を与えてきました。
聖書はあなたを愛する創造主、天の父の愛の言葉です。
ぜひ、あなたも聖書を読んで、混迷(こんめい)の現代を生きる賢者として歩んでいきましょう!
聖書のこと、神様のこと、救い主イエス・キリストのことをさらにお知りになりたい方は、どうぞ他の記事も読んでみてください↓↓
👇おすすめの本