神がいるなら、どうしてこの世に悪や苦しみが存在するんですか?
こんな疑問にお答えします。
✔本記事の内容
- 良い創造と人間の罪への堕落【悪と苦しみの起源】
- 神は人間の自由意志を侵害しない【この世に悪や苦しみが存在する理由】
- 神は苦しむ人をどう思っている?【十字架を見ると、神の本当の思いが分かる】
- 神はこの世の悪や苦しみをどうするのか?
- なぜわたしが苦しむのか?
✔本記事の信頼性
- 筆者は、クリスチャン歴40年以上
- 約20年間の牧師としての経歴
- キリスト教の主な著作を読んで得た知識
この記事を読むと、神がいるなら、なぜこの世界に悪や苦しみが満ちているのかがよく分かります。
カンタンに解説しますので、ぜひ、最後までご覧ください。
神がいるなら、なぜ悪や苦しみがあるんですか?【キリスト教Q&A】
まず、この世の悪や苦しみの起源について聖書から解説し、その後でなぜこの世に悪や苦しみが存在するのかをキリスト教の視点で説明していきます。
良い創造と人間の罪への堕落【悪と苦しみの起源】
聖書の最初の創世記には、神がこの世界を良い世界に創造したと教えられています。
最もきよく、良い方である創造主が造った世界は、極めて良い世界でした。
現在の世界に見られる悪や苦しみ、死は存在しなかったのです。
ですから、今の世界の悪や苦しみは、神の責任ではありません。
この世の悪や苦しみを理由にして神を責めることはできないのです。
聖書によると、この世の悪や苦しみの原因は、最初の人間アダムとエバの罪への堕落(だらく)にあります。
アダムとエバは創造主とエデンの園でしあわせに暮らしていました。
ところが、アダムとエバは神の命令を破って善悪の知識の木の実を食べ、創造主に反逆したのです。
その結果、
- 命の源である神との関係が壊れ、アダムとエバはエデンの園を追放されました。
- アダムとその子孫であるわたしたちはいつか肉体の死を迎えるようになりました。
- 死と共に病気やあらゆる苦しみも経験するようになったのです。
- 地も呪われ、人間に優しくなくなりました。労働は苦しいものに変わりました。
更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。 (3章17-19節)
さらに、神に背いたことによって、人間自体の心の性質が変わってしまいました。
元々は良い神に似せて作られた良い人間だったのに、悪いことも思い、語り、行うようになってしまったのです。
人類最初の殺人は、アダムとエバの息子たちの間で起こりました。
長男カインが弟アベルをねたんで殺したのです。
アダムとエバの罪への堕落によって、創造主がお造りになった極めて良い人間と世界から変わり果てました。
聖書によると、創造主に反逆した人間の罪こそ、今のわたしたちの世界の死、病気、苦しみ、自然災害、人間関係の悩み、仕事の大変さ、犯罪、戦争などの起源であり、根本原因なのです。
神は人間の自由意志を侵害しない【この世に悪や苦しみが存在する理由】
アダムとエバの罪がこの世の悪や苦しみの原因だとお伝えすると、
じゃあ、なんで創造主は人間が罪を犯すように造ったの?
と疑問に思う方がいるでしょう。
その答えは、神が人間を愛しているからです。
神は人間を愛していて、人間の方も自由意志の選択によって神を愛してほしいと望んでいます。
強制ではなく自由意志ですから、当然、そこには神に背いて罪を犯す可能性もあります。
神がロボットも奴隷も望まないで、人間の自由意志を尊重した結果、アダムは罪を犯しました。
それは100%人間の側の責任であって、神の責任ではありません。
今の世界の悪や苦しみも、自由意志の点で説明できます。
たとえば、ある人が車を運転中、スピード違反や信号無視をして、他の人が被害者になってしまうことが現実にあります。
もし神がそのドライバーの違反行為を強制的にストップさせれば、それは人間の自由意志に重大な侵害行為、暴力を加えることになるのです。
もちろん、創造主は聖書の言葉や国の法律などの様々な手段を通じて、人間が違反行為や悪いことをしないように警告しています。
しかし、自分が造った人間の自由意志を強制的に侵害することはしません。
その結果、ある人が自己中心の考えで他の人に被害を与えることが生じるのです。
それは完全に罪を犯した本人の責任であって、誰も神のせいにすることはできません。
個人を超えたレベルの民族や国家同士の紛争や戦争、人為的な災害も、責任は人間にあります。
人間同士も愛する人の自由意志を尊重します。
深刻な結果が待っていると思えば反対しますが、最終的には本人の自由意志による判断に任せるでしょう。
相手を愛し、尊敬しているからです。
創造主も人間を愛しているので、自由意志を侵害することはしないのです。
神は苦しむ人をどう思っている?【十字架を見ると、神の本当の思いが分かる】
この世の悪や苦しみを放っておくなんて、神はこの世の悪や苦しみに悩む人々を天の高みから冷たく見下ろしているんじゃないですか?
実は、その正反対です。
神は悪や苦しみに悩むわたしたちを放っておけなくて、自らこの世に人として生まれました。
神への一切の批判、誤解に対するキリスト教の答えは、イエス・キリストなのです。
苦しみに共感する神
約2000年前、神の子はこの世界に人として生まれました。
生まれた場所は、家畜の糞尿(ふんにょう)の臭いのする馬小屋でした。
誕生の瞬間から、この世界のまともな場所にはどこにも居場所がなかったのです。
そして、幼い頃にヘロデ大王に殺されそうになったため、両親に連れられて外国に逃げなくてはなりませんでした。
こういう経験をしたイエスは、ホームレスの人々、母国を離れた異国でさびしい思いをする移民や難民の方々の気持ちが分かるでしょう。
イエスは救い主としての活動を始める前に荒野で40日間断食をしました。
ですから、イエスにはこの世界で飢えている人々の気持ちもよく分かるでしょう。
イエスが救い主として活動していた最中に、イエスは頭がおかしくなったのではないかと誤解した家族が連れ戻しに来ました。
イエスの弟子たちはイエスを慕(した)っていましたが、イエスが地上で彼らと共にいた間、イエスの救い主としての働きの真の意味については無理解でした。
イエスは12弟子の一人、つまり、親しい仲間の一人に裏切られたばかりか、他の11人の弟子たちにも見捨てられたのです。
このように経験をしたイエスは、家族や友人、周囲の人から理解されず、つらい思いをする人たちの気持ちも理解できるでしょう。
新約聖書の福音書にはイエスの言葉と行ないが記されていますが、イエスが疲れ果てた群衆を見たときの感情も書かれています。
イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。 (マタイによる福音書9章35-36節)
イエスは弱り果てて、倒れている群衆を見て、「深くあわれまれ」たのです。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「深くあわれまれた」と日本語に訳された元のギリシャ語は、「スプランクニゾマイ」という言葉です。
直訳すると、「腸がちぎれる思いに駆られて」となります。
その頃、感情は腸(はらわた)に宿ると考えられていました。
その腸がちぎれそうになる程、イエスの感情は激しく揺さぶられたのです。
イエスが群衆の苦しみを真に理解し、自分自身の苦しみであるかのように深く共感したからでした。
イエスこそ、聖書が教える神自身です。
わたしたちがイエスと出会い、イエスの人柄を知った後には、
この世の悪や苦しみを放っておくなんて、神はこの世の悪や苦しみに悩む人々を天の高みから冷たく見下ろしているんじゃないですか?
とは二度と言えません。
聖書の神は自ら人となって苦しみで満ちた世界に来て、誰よりも苦しみを経験したばかりでなく、他の人々の苦しみに腸がちぎれる思いに駆られてくださった方であるからです。
※「この大祭司」とは、イエスのことです。
そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル人への手紙2章17-18節)
十字架に見る神の本当の思い
そして、この世の苦しみの根本原因である罪からわたしたちを救うために、イエスは十字架の上で死んでくれました。
聖書の神は自分に背く人間を見捨てず、この世の悪と苦しみから救い出すために、自らを犠牲にしてくれたのです。
わたしたちがこの世界の悪と苦しみを見聞きするとき、
なぜ神はこの世の苦しみを放っておくのか?
どうして何もしないのか?
神なんて存在しないか、もし存在したとしても、人間の苦しみを天から眺めるのが趣味の残酷なヤツだ!
と思って、神の存在を否定したり、神が愛であることを疑ったりするでしょう。
しかしこの世の悪や苦しみに悩む人への神の本当の思いは、イエスの十字架に鮮やかに現れています。
神はこの世界で苦しむ人々の悩みに深く共感し、自分自身の苦しみのように感じているのです。
そして、自らこの世に来て、自分を犠牲にしてわたしたちの苦しみの根本原因である罪の問題を解決してくれたのです。
わたしたちがイエスの十字架を考えるとき、わたしたちが抱いていた神への誤解や恨(うら)みは消え去ってゆくでしょう。
神はわたしたちの苦しみや悩みに無関心であるどころか、誰よりも深く真実に共感して、わたしたちを救うために自らを犠牲としてくださったからです。
神はこの世の悪や苦しみをどうするのか?
神はこの世の悪や苦しみにどう対処するんですか?
神がイエスによって悪や苦しみの根本原因である罪の問題を解決したのは分かりましたが、それだけなんですか?
神がこの世の悪や苦しみに対処する方法として、以下の3つを解説していきます。
- 神はこの世の悪や苦しみを通してわたしたちの信仰を訓練したり、わたしたちが神と出会えるように導いたりしてくれます。
- 神は最後の審判でこの世の悪を裁くのです。
- 神はわたしたちのために死も苦しみもない永遠の世界を用意してくれます。
摂理(せつり)~万事を益となるようにしてくださる~
創造主は自分が造った世界を今も治めています。
これを神の「摂理(せつり)」と言います。
そして、神はわたしたちのために万事(すべてのこと)をプラスにしてくれるのです。
万事には良いことや普通のことだけではなく、この世の悪や苦しみもふくまれています。
悪や苦しみ自体が善や喜びに変わるわけではありません。
悪や苦しみは嫌なものです。
神はわたしたちがこの世でマイナスの経験をするとき、損をしただけで終わらないように、マイナスからプラスを生み出してくれるということです。
たとえば、神は試練を通して、
- わたしたちの信仰を訓練します。【クリスチャンの場合】
- わたしたちが神と出会えるように導きます。【クリスチャンでない方の場合】
神は試練を通してクリスチャンを訓練するのです。
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 (ヘブル人への手紙12章5-12節)
神はクリスチャンでない方がマイナスの経験を通して、神(この世の悪と苦しみの究極の解決)と出会えるように導いてくれます。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。
あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです。
(詩篇119篇71-72節)
苦しみにあったことは、わたしにとって良いことでした。
と心から言えるようにしてくれるのです。
誤解のないように記しますが、神がわたしたちの信仰を訓練したり、神を信じたりするように、わざとわたしたちに悪や苦しみを与えるということではありません。
愛の神は人間の悪意、この世の不条理、全くの偶然で無意味にしか思えないマイナスの出来事の中から、わたしたちの今と永遠に役立つプラスの結果を生み出してくださるという意味です。
愛の神は自分が造り、愛しているわたしたちがこの世の悪や苦しみによって打ちのめされて終わることは望んでいないのです。
最後の審判~この世の悪を裁く~
この世の悪への神の究極の解決は、イエス・キリストが再びこの世に戻って来るとき、イエスによってこの世の悪を裁くことです。
これは「最後の審判(しんぱん)」と呼ばれています。
神はなぜこの世の悪を放っておくのか?
と思うことがあるでしょう。
神はずっと放ってはおきません。
神はこの世の悪を放っておかず、いつか神の正義で報いを与えます。
神がイエスによってこの世の悪を裁く日が必ず来るのです。
ただ、わたしたちが注意しなくてはならないのは、最もきよく、愛に満ちた神の裁きの基準は、わたしたち人間が想像するよりもはるかに高いということです。
わたしたちはこの世の悪について考えるとき、その悪のカテゴリーから自分自身を除外しているでしょう。
しかし、わたしたち自身はこれまで嘘(うそ)をついたり、人の物を盗んだりしたことは全くないでしょうか?
親を敬わなかったり、性的な目で異性を眺めたりしたことは一度もないでしょうか?
人を傷つける言動をしたことは?
わたしたちの多くは社会的な犯罪を犯したことはないかもしれませんが、道徳的に良くないことを誰もが一度くらいはしたことがあるのではないでしょうか?
わたしたちは神の正義の裁きを知って喜ぶと同時に、自分自身がこれまで創造主を無視して生きてきたことと、他の人たちにしてきたことを神の前に告白し、赦(ゆる)しを求める必要があるのです。
神は赦してくださいます。
神がイエスをこの世に送り、わたしたちの身代わりに十字架で罪の罰を受けさせたのは、わたしたちを赦すためであるからです。
永遠の世界~もはや死も、悲しみも、叫びも、痛みもない~
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
すると、御座にいます方が言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
(ヨハネの黙示録21章1-5節)
この世の苦しみへの神の究極の解決は、死も悲しみも苦しみもない永遠の世界をわたしたちのために用意することです。
人間の罪によって世界は変わりましたが、決して永遠に今の状態ではありません。
愛の神は、悪も苦しみも存在しない永遠の世界をわたしたちのために用意してくれるのです。
なぜわたしが苦しむのか?
どうしてわたしや家族が苦しまなくてはならないんですか?
最後にこの問いを取り上げます。
聖書はこの世の悪や苦しみの起源や根本原因について語っていますが、個人の苦しみの原因については語っていません。
イエスの時代の人々は、障害を持って生まれてきた人は天罰を受けていると考えていました。
本人か家族が罪を犯したから神から罰を受けていると考えたのです。
いわゆる「因果応報(いんがおうほう)」思想にどっぷり染まっていました。
そして、障害を持った人は社会的にも差別され、その苦しみは何倍にもなっていたのです。
イエスの弟子たちも当時の因果応報思想の影響下にあったため、生まれつき目の不自由な人を見かけたとき、イエスにこう尋ねました。
先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか。
本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
イエスの弟子たちは障害の原因を尋ねましたが、イエスは「神のみわざが彼の上に現れるため」という障害の目的について弟子たちが考えるように導きました。
人間は常に苦しみの原因を尋ねたがり、結果、苦しんでいる人をさらに苦しめることを言ったり、したりします。
あるいは、苦しむ人自身も自分の苦しみの原因を探って、自分を責め、苦しみを増してしまうかもしれません。
苦しみの原因は人間には誰にも分からないのです。
分かるというのは、他人の苦しみにつけこもうとするカルト宗教の人だけでしょう。
なぜわたしは苦しむのか?
とずっと問い続けるのではなく、イエスが語ったように、苦しみを通して神の素晴らしいみわざが現れることを期待してゆきましょう。
わたしたちには苦しみの原因は分かりません。
しかし神はご存じです。
わたしたちの苦しみを放っておけず、わたしたちの苦しみを自分の苦しみのように感じてくれる神がすべてを知っていてくれます。
自分の子であるイエスをこの世に送り、十字架でわたしたちの代わりに死なせてくれたほどにわたしたちを愛している神がすべてを知っていてくれるのです。
この先、もしかしたら神が様々な手段を通して、わたしたちに苦しみの原因を気づかせてくれる日が来るかもしれません。
来ないかもしれません。
将来どうなるかは分かりませんが、今わたしたちは神を信頼し、神がわたしたちの苦しみの原因を知っていてくれることに満足してゆきましょう。
将来わたしたちが天国に行ったとき、神からすべてを聞けるかもしれません。
あるいは、天国に行って、愛に満ちた神を前にしたら、もう過ぎ去ったときの苦しみはどうでもよくなってしまうかもしれませんね。
まとめ:愛の神を信頼し、苦しみの中に現れる神のみわざに期待していきましょう!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがでしたか。
この記事では、
- 良い創造と人間の罪への堕落【悪と苦しみの起源】
- 神は人間の自由意志を侵害しない【この世に悪や苦しみが存在する理由】
- 神は苦しむ人をどう思っている?【十字架を見ると、神の本当の思いが分かる】
- 神はこの世の悪や苦しみをどうするのか?
- なぜわたしが苦しむのか?
について解説してきました。
難しいテーマですが、できるだけ分かりやすく解説するように心がけました。
参考にしていただけたら幸いです。
- この世の悪や苦しみは、良い世界を創造した神の責任ではなく、人間の罪への堕落が原因です。
- 神は人の自由意志を侵害しないため、人間の自己中心によって他の人が苦しむ現実があります。
- 十字架を見ると、神が人の苦しみに共感し、根本問題である罪を解決したことが分かります。
- 神はマイナスからプラスを生み出し、最後の審判で悪を裁き、死も苦しみもない永遠の世界をわたしたちに用意してくれるのです。
- 人間には苦しみの原因は分からないが、愛の神がご存じであることに満足し、苦しみの中に現れる神のみわざに期待してゆきましょう。
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