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イエス・キリストってどんな人?何をしたの?【わかりやすく解説】

イエス・キリスト 聖書

 

女性
女性

イエス・キリストってどんな人だったんですか?

 

何をしたんですか?

 

クリスチャンはイエスについて何を信じているんでしょうか?

 

キリストさん
キリストさん

分かりました。

 

イエスが何者だったのか、何をなしとげたのか、イエスの生涯についてお話ししますね。

 

クリスチャンがイエスについて信じていることもお伝えします。

この記事を書いているわたしは、クリスチャンの家に生まれ育ち、プロテスタントの牧師になるための神学校を卒業後、約20年間キリスト教会で牧師として働いてきました。

このようなわたしが上記の質問にお答えします。

この記事を読んでいただくと、

① 2024年現在、23億8000万人のフォロワーを抱える世界最大の宗教、キリスト教の創始者イエス・キリストの正体とイエスが実現した働きについてざっくりと知ることができます。イエスについての知識は、国際人として必須の教養と言えるでしょう。

② 東西の無数の人々の魂を救ってきたイエスの生涯を学ぶことは、あなた自身の人生を変えるきっかけとなることでしょう。

③ キリスト教会がイエスについて信じていることもふくめて、カンタンに解説しますので、ぜひ、最後までご覧ください。

イエス・キリストってどんな人?何をしたの?【わかりやすく解説】


日本ではイエス・キリストは、孔子や釈迦と並ぶ
世界三大聖人として知られています。

「汝(なんじ)の敵を愛せよ」という高い道徳を説いたイエスの山上の説教にひかれる人は少なくありません。

日本人にとって、イエスは人類史上最高の道徳の教師という位置づけです。

しかしイエスの言葉と行いを記録した新約聖書は、イエスを単なる道徳の教師を超えた存在として紹介しています。

すなわち、イエスは神の子であり、わたしたちを罪から救うために神から送られた救い主だというのです。

イエス・キリストの名前の意味

イエス・キリストは、山田(姓)太郎(名)のような苗字と名前ではありません。

キリストであるイエス」という意味です。

キリストは、「油注がれた者」という意味のヘブライ語のメシアのギリシャ語訳で、神が任命した救い主の称号です。

つまり、イエス・キリストは、「イエスこそがキリスト、神が送った救い主」という信仰の告白となっています。

ちなみに、イエスという名前は、イエスが生まれる前に天使が両親に告げた名です。

「神はわたしの救い」という意味があります。

天の神が天使を通して知らせたイエスという名は、イエスが罪からの救いをわたしたちに与える神の子であることを示しているのです。

イエス・キリストの名前について関心のある方は、この記事もご覧ください↓↓

イエス・キリストの生涯~誕生から昇天まで~

それでは、イエス・キリストの生涯をざっくりと解説しましょう。

イエスの誕生、幼少期

ベツレヘムの馬小屋でのイエスの誕生

ベツレヘムの馬小屋でのイエスの誕生

イエスが生まれたのは今から約2000年前、ローマ帝国が地中海世界を支配していた時代でした。

その頃、ローマ皇帝の人口調査の勅令(ちょくれい)が出され、イエスの父となったヨセフも先祖の町ベツレヘム(現在のパレスチナ自治区に位置する)まではるばる旅をしました。

イエスの父となったヨセフは、かのダビデ王朝を築いたダビデ王の子孫で、ベツレヘムはダビデ王が生まれ育った町だったからです。

ミケランジェロのダビデ像

ミケランジェロのダビデ像

ヨセフの婚約者マリアはすでに妊娠していましたが、その旅に同行し、ベツレヘムでイエスを出産しました。

イエスがベツレヘムで生まれたことは、単なる偶然のようにしか見えませんでしたが、実は旧約聖書の時代に神が預言者を通して約束していたことの実現でした。

神はイエスが生まれる約700年前に、やがてダビデ王の子孫から救い主が生まれる、しかもベツレヘムの町で生まれると語っていたからです。

2:しかしベツレヘム・エフラタよ、/あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、/イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。
                                                               (ミカ書5:2)

天の神はローマ皇帝の決定もふくめたすべてを導いて、イエスがベツレヘムで生まれるようにし、旧約聖書の預言を見事に実現したのです。

そもそも、イエスの生誕の地だけではなく、イエスの誕生自体が神の超自然的な介入によりました。

フラ・アンジェリコ 『受胎告知』 Fra Angelico, Public domain, via Wikimedia Commons

ヨセフの婚約者のマリアは処女でしたが、天使ガブリエルのお告げによって、聖霊の力によって妊娠し、神の子イエスをその胎内に宿したのです!

これをキリスト教では、「処女降誕(しょじょこうたん)」と呼んでいます。

天使ガブリエルはイエスの両親となるマリアとヨセフのそれぞれに現れ、マリアの胎内に宿るのは、人々を罪から救うためにこの世に来られる神の子だと語りました。

御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。                                                                                                                                 (ルカによる福音書1:35)
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。                                                                                                                                                                            (マタイの福音書1:21)

さて、イエスは貧しい両親の下に生まれ、生後しばらくはベツレヘムにそのまま滞在しました。

その後、救い主の誕生を知って、自分の地位が危うくなることを恐れたユダヤの領主ヘロデ大王に命をねらわれ、幼子イエスは両親に連れられてエジプトへ避難したのです。

ヘロデが死ぬと、イエスの両親は元々暮らしていたガリラヤ地方のナザレに戻りました。

その後、イエスは約30歳で救い主としての活動を開始するまで、大工ヨセフの息子として、早くに亡くなったと考えられている父ヨセフに代わって家族を養うために大工として働いたようです(新約聖書はイエスの救い主としての働きにフォ―カスをあてているため、イエスの12歳から30歳頃までの記録は聖書に記されていません)。

旧約聖書の預言

旧約聖書にはイエス・キリストに関する預言が300以上あります。

イエスが生まれる前から、イエスの誕生、生涯、死と復活、再臨についても予め語られていたのです。

最も有名なのはイザヤ書53章で、イエスがわたしたちを罪から救うために身代わりに苦しむ姿が克明に描かれています。

旧約聖書とイエス・キリストの関係について知りたい方は、この記事もご覧ください↓↓

イエスの受洗、荒野の誘惑

イエスの受洗

イエスの受洗

イエスが30歳になる頃、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物が現れました。

ヨハネは民衆に自分の罪を悔い改めて※洗礼を受け、もうすぐ来る救い主を受け入れる準備をしなさいと勧めました。

※洗礼とは、体を水にひたし、あるいは頭上に水を注ぐ儀式です。

イエスは罪のない方でしたが、わたしたちを罪から救う働きのために、あえてヨハネから洗礼を受けたのです。

そのとき、神がイエスを救い主に任命する声が天から聞こえました。

同時に、イエスに救い主として働く力を与える聖霊が、鳩のような形をしてイエスの上に降りました。

16:イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。

17: また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
                           (マタイによる福音書3:16-17)

荒野の誘惑

荒野の誘惑

さて、イエスは神の霊によって荒野に導かれ、そこで40日40夜断食し、その後、サタンから誘惑を受けました。

悪魔は何とかしてイエスの救い主としての働きを阻止しようとしました。

しかしイエスは、「人はパンのみにて生きるにあらず」という有名な言葉などを使って、サタンの誘惑を見事に退けたのです。

聖霊の力を受け、悪魔の誘惑を退けたイエスは、北のガリラヤ地方でいよいよ公の宣教活動を開始しました。

イエスの教えと奇跡~山上の説教、数々の偉大な奇跡~

イエス、会堂司ヤイロの娘を生き返らせる

イエス、会堂司ヤイロの娘を生き返らせる

イエスは弟子たち、特に「使徒」と呼ばれた側近の12弟子を集めつつ、各地を巡って神の国の教えを語り、病気に苦しむ人々をいやす奇跡を行い、悪魔にとりつかれた人々を解放しました。

イエスの教えの中で有名なのは、「山上の垂訓(すいくん)」、あるいは「山上の説教」と呼ばれる教えです。

その中のエッセンスである言葉をご紹介します。

3:「こころの貧しい人たちは、さいわいである、/天国は彼らのものである。

4: 悲しんでいる人たちは、さいわいである、/彼らは慰められるであろう。

7: あわれみ深い人たちは、さいわいである、/彼らはあわれみを受けるであろう。

9: 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、/彼らは神の子と呼ばれるであろう。
                                                                                              (マタイによる福音書5:3-4,7,9)

28: しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
                                                                                                 (マタイによる福音書5:28)

39: しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
                                                                      (マタイによる福音書5:39)

44: しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
                                                                                                       (マタイによる福音書5:44)

山上の説教

山上の説教

9: だから、あなたがたはこう祈りなさい、/天にいますわれらの父よ、/御名があがめられますように。

11: わたしたちの日ごとの食物を、/きょうもお与えください。

12: わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、/わたしたちの負債をもおゆるしください。
                                                                                                (マタイによる福音書6:9, 11-12)

25: それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。

26: 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。

だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
                                                                                   (マタイによる福音書6:25-26, 34)

6: 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
                                                                                                          (マタイによる福音書7:6)

7: 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。                                                                                                                                                                                                  (マタイによる福音書7:7)

13: 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。

14: 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

                                                                                                        (マタイによる福音書7:13-14)

26: また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

27: 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
                                          (マタイによる福音書7: 26-27)

山上の説教

イエスの倫理的な教えの典型である山上の説教の中には、実は日本のことわざ・言葉になった教えもふくまれています。

たとえば、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」、「豚に真珠」、「求めよさらば与えられん」、「狭き門」、「砂上の楼閣(ろうかく)」など。

山上の説教はインド独立の父マハトマ・ガンディーや人種差別解消のための公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師に深い影響を与えました。

イエスの山上の説教に興味のある方は、ぜひ、これらの記事もご覧ください↓↓

 

奇跡

イエスの言葉と行いを記録した福音書には、イエスの数々の奇跡が記されています。

イエスは目や耳の不自由な人、口がきけない人、足の不自由な人、病気に苦しむ人々をいやし、死人を生き返らせました。

水をぶどう酒に変え、5つのパンと2匹の魚を奇跡的に増やして、5000人以上の人々を満腹させ、嵐のガリラヤ湖の上を歩きました。

イエスが命じると、湖の嵐は一瞬でやみ、人々を苦しめていた悪霊は逃げ去ったのです。

これらの奇跡は、イエスこそが神の子、救い主であることを目に見える形で人々に証明するものでした。

なぜなら、旧約聖書の中には、救い主が来るとき、障害を持つ人々や病気に苦しむ人々がいやされるという預言があります。

まさにイエスのまわりでその預言が実現していたからです。

イエスの奇跡について関心のある方は、ぜひ、次の記事をお読みください↓↓

 

イエス・キリストの最後の一週間~エルサレム入城、最後の晩餐、十字架、復活~

約3年間の公の宣教活動の後、(現在のイスラエルに位置する)エルサレムへと向かいました。

神の子イエスが救い主としてこの世に生まれたのは、わたしたちを罪から救うためでした。

救い主としてのその使命を果たすために、イエスはエルサレムに行き、そこでわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかって死ぬ必要があったのです。

実はイエスは、たびたび弟子たちに自分の来るべき死を予告していました。

21: この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
(マタイによる福音書16:21)

17: さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、

18:「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、

19: そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
                                                                                           (マタイによる福音書20:17-19)

イエスは自分の迫りくる死を強く意識していました。

自分の死を予告できたわけですから、イエスにはその死を避けることもできたのです。

そもそもエルサレムに行かなければよかったのでした。

しかしイエスは、勇敢にエルサレムに向かいました。

わたしたちが罪から救われるためには、誰かがわたしたちの身代わりに罪を背負い、罪の罰を受けなくてはなりません。

イエスがわたしたちの罪の身代わりにエルサレムで十字架で死ぬことこそ、天の神がお決めになった救いの計画だったからです。

神の子イエスはその救いの計画に喜んで同意したから、この世に救い主として来たのです。

神の子であり続けながら、処女マリアの胎内に宿って、人間としての魂と身体をとって生まれました。

全てはわたしたちを愛し、わたしたちを罪から救うためだったのです。

イエス、エルサレムに入る

イエス、エルサレムに入る

さて、イエスがエルサレムに近づくと、人々は熱狂的にイエスを歓迎しました。

8: 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。

9: そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、/「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。                                                                    (マタイによる福音書21:9)

イエスがエルサレムに入ったのは日曜日のことでした。

イエスをエルサレムに迎え入れた群衆たちは、残念ながら金曜日にはイエスを「十字架につけろ!」と叫ぶようになったのです。

イエスはエルサレムに入ると神殿をきよめ、そこで神の国の教えを語りました。

そして、木曜日には弟子たちとともにユダヤの三大祭りの一つ、過ぎ越しの祭りの食事を食べました。

この夕食は、十字架の死を前にした最後の食事だったため、「最後の晩餐(ばんさん)」と呼ばれています。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院

レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』 ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院  Public domain

最後の晩餐

イエスが十字架の死の前に弟子たちと最後にとった食事は、レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』によって広く人々に知られています。

イエスはこの夕食の席でイスカリオテのユダの裏切りを予告し、弟子たちの足を洗い、自分が十字架と復活を経て、天に帰った後、弟子たちがどう過ごすべきかを語りました。

この食事の後、イエスは弟子たちとともにゲツセマネの園に行き、差し迫った十字架の死を前にして最後の覚悟を固めるために、神に祈りをささげました。

その後、前もって予告していた通り、イエスはイスカリオテのユダの裏切りによって逮捕されたのです。

ユダの裏切り

ユダの裏切り

イエスの弟子たちは、イエスが捕まったのを見ると、イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。

イエスは大祭司が率いるユダヤ最高議会サンヘドリンによって不当な裁判を受け、集団で暴行されました。

そして、ローマ総督ポンティオ・ピラトにローマ帝国に対する反逆罪で引き渡されたのです。

ピラトはイエスがローマの法律に照らして無罪であり、宗教指導者たちがイエスを訴えたのはイエスの人気をねたんだためであると見抜いていました。

しかし宗教指導者たちにそそのかされた群衆たちが、「イエスを十字架につけろ!」と叫び続けるのを聞いて、暴動が起きそうになるのをピラトは恐れました。

ピラトの裁判

ピラトの裁判

ピラトは裁判官として正しい裁きをすべきであったにもかかわらず、自己の保身のために、イエスを鞭打たせ、十字架刑にするために兵士たちに引き渡したのです。

鞭打ち

鞭打ち

ローマ兵たちはイエスにいばらの冠をかぶせ、イエスの頭を葦の棒で殴り、さんざんイエスを侮辱しました。

そして、エルサレムの郊外のゴルゴタの丘まで、すでに心身ともにボロボロであったイエスに十字架を担がせたのです。

十字架への道行き

十字架への道行き

イエスはゴルゴタの丘で手足を十字架に釘づけにされ、二人の強盗の真ん中に、あたかもイエスが強盗の親分であるかのようにはりつけにされました。

イエスの十字架

イエスの十字架

イエスは午前9時に十字架にかけられ、最初の3時間は人々、特に宗教指導者たちから徹底的にあざけられ、ののしられました。

 

宗教指導者1
宗教指導者1

もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい。

 

宗教指導者2
宗教指導者2

他人を救ったが、自分自身を救うことができない。

 

あれがイスラエルの王なのだ。

 

いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」


もちろん、イエスには直ちに十字架から降りる力がありました。

しかしイエスは、多くの人々を助けるために奇跡を行っても、決して自分自身のためには奇跡を行いませんでした。

そして、イエスがこの世に来たのは、十字架で命を捨てて、わたしたちを罪から救うためだったので、どれだけののしられても決して十字架から降りなかったのです。

かえってイエスは、自分をはりつけにした人々のために、十字架の上で祈りをささげました。

 

イエス
イエス

父よ、彼らをおゆるしください。

 

彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。

 

のように、イエスは最初の3時間、徹底的に人々からのあざけりに耐えました。

続いて、正午から午後3時まで、イエスは自分の犯した罪のためではなく、わたしたちの犯した罪に対する罰を身代わりに耐えました。

罪のないイエスはわたしたちの罪を身代わりに背負って、わたしたちの代わりに神から見捨てられたのです。

45: さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。

46: そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
                                                                                           (マタイによる福音書27:45-46)

イエスの犠牲の死によって、わたしたちの罪がゆるされる道が開かれました。

イエスの十字架について関心のある方は、ぜひ、次の記事も読んでみてください↓↓

さて、十字架で死んだイエスの身体は墓に葬られましたが、これが全ての終わりではありませんでした。

復活したイエスとマグダラのマリアの再会の場面フラ・アンジェリコ『我に触れるな』

復活したイエスとマグダラのマリアの再会の場面 フラ・アンジェリコ『我に触れるな』public domain

イエスは予め予告していた通り、三日目に復活したのです!

イエスが死人の中からよみがえるまで、人間は死に対して負けっぱなしでした。

しかしイエスの復活によって、わたしたちに永遠の命の希望が与えられたのです!

イエスの復活についてもっと知りたい方は、ぜひ、この記事もご覧ください↓↓

イエス・キリストの昇天と再臨

レンブラント・ファン・レイン『キリストの昇天』

レンブラント・ファン・レイン『キリストの昇天』 Public domain

復活後、イエスは40日間弟子たちと行動をともにし、神の国の教えを語ってから、天に昇りました。

イエスが天に昇ったのは、イエスが救い主として果たすべき使命を達成したということです。

そして、イエスは弟子たちに自分が世の終わりに戻って来ると約束しました。

これを「再臨(さいりん)」といいます。

やがてイエスは信じる者たちの救いを完成し、この世の悪を裁き、世界を神が望む新しい永遠の世界に回復し、完成するために戻って来るのです。

イエス・キリストの正体ーイエスは神?それとも詐欺師?妄想にふけっていた?ー

イエス

イエス

イエスの生涯をざっくりと紹介してきましたが、ここではイエスとは何者なのかを掘り下げてゆきます。

多くの日本人は、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」などのイエスの高い道徳について聞いたことがあり、イエスを偉大な道徳の教師だとみなしているでしょう。

しかし、イエスが単なる道徳の教師だというのは、決してありえないことです。

なぜなら、イエスは自分自身を神の子だと宣言していたからです。

17: そこで、イエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」。

18: このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。それは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。
                         (ヨハネによる福音書5:17-18)

ヘラクレス

ヘラクレス

わたしたち日本人が「神の子」と聞くと、ギリシャ神話のヘラクレスを思い浮かべるかもしれません。

ヘラクレスはゼウスと人間の母の子で、半分神で、半分人間でした。

わたしたちが普通持っている神の子のイメージはこんな感じでしょう。

ただし、聖書の世界では、犬の子が犬、人間の子が人間であるのと同じく、神の子は神なのです。

新約聖書がイエスは神の子だという場合、イエスは100%神であって、人間以上神以下の存在ではありません。

まして他の人間よりも霊感が強かったということで、イエスが神の子だったといっているわけではないのです。

どこからどう見ても人間にしか見えないイエスが、自分は神だと宣言したのです。

イエスの宣言は、同時代のただ一人の神だけを信じるユダヤ人たちにとってもショッキングな宣言で、宗教指導者たちはこの冒涜(ぼうとく)ためにイエスを殺そうと考えたほどでした。

イエスの宣言は、今のわたしたちにとっても衝撃的な発言です。

話を戻すと、自分は神だと宣言しているイエスがただの道徳の教師であるはずがありません。

なぜなら、3つの選択肢しかないからです。

①イエスは自分を神だと偽り、人々をだました偽善者、詐欺師だった。

②イエスは精神の病を抱えており、自分が神だと思い込み、妄想していた。

③イエスは本当に神である。

①、②の場合、イエスを偉大な道徳の教師とは言えないでしょう。

③の場合、イエスは単なる道徳の教師ではなく、偉大な道徳の教師であると同時に、それ以上の存在、神の子でもあります。

①、②の可能性はありえないでしょう。

どうしてかというと、偽善者や詐欺師、あるいは妄想にふけるような人が、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」という最高の倫理を考え出し、人々に教えることができるでしょうか?

献身的に人々の病をいやし、悪霊から解放し、助けていたイエスの愛の姿は、イエスが詐欺師や妄想にふけっていた人という可能性を排除するでしょう。

しかも、イエスはただ愛の教えを説いただけでなく、自ら十字架の上で敵のために祈って実践した人物です。

人間はうそのためには死ねません。

イエスが偽善者や詐欺師であったなら、自分を訴えた大祭司たちに命乞いをして、何とか助かる道を選んだでしょう。

イエスが妄想にとりつかれていただけの人だったなら、十字架にはりつけにされた時点で情けない姿を見せたことでしょう。

敵を愛することを教え、実践し、今もなお世界中の人々に深い影響を与えているイエスが偽善者?精神の病を抱えて、妄想にふけっていた?

他の人ならともかく、イエスの場合はありえないでしょう。

そうなると、残る選択肢はただ一つ、イエスは神なのです。

実際、イエスの復活は、イエスが神の子であることの証明であり、復活したイエスに出会った弟子たちはイエスを礼拝し、神といいました。

9: すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。
(マタイによる福音書28:9)

27: それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。

28: トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
                          (ヨハネによる福音書20:27-28)

キリスト教会は2000年間、イエスが神の子であると信じ、礼拝してきました。

イエス・キリストは何をしたのか?~救い主としての働き~

イエスの十字架の死

イエスの十字架の死

結局、イエスは何をした人だったのでしょうか?

イエスの道徳には価値があり、イエスの愛の奉仕は意味があったでしょう。

しかし新約聖書がイエスの働きとしてフォ―カスをあてているのは、終始一貫して「罪からの救い」です。

罪という謎

しかし罪と言われても、ピンとこないかもしれません。

罪という言葉をわたしたちが聞いたとき、普通思い浮かべるのは犯罪のことで、自分は「犯罪者ではない」と思うからです。

キリスト教が人間を「罪人(つみびと)」っていうとき、

 

女性
女性

わたしは犯罪を犯したことはない!


と思わず反発したくなる気持ちは分かります。

聖書の教える罪は、おもに神との関係での罪なのです。

創造主は人間を自分といっしょに生きるように造りました。

神といっしょに生きるとき、人間の心は満たされ、最も幸せで、安心して生きていけるのです。

神こそが人生の正しい目標です。

ところが、的を外して飛んでいく矢のように、生まれつきのわたしたち人間は神から離れて生きています。

聖書が罪と呼んでいるのは、この的外れな状態です。

そして、神から離れたこういう心の状態から現実の悪い思い、言葉、行いも生じてきます。

罪って謎ですが、わたしたちが自分の生きているこの世界をありのままに見るとき、良いこと、楽しいことばかりではありません。

いじめ、ハラスメント、犯罪、事故、病気、自然災害、戦争などであふれていて、この世界を単純に良い世界だと断言できる人はいないでしょう。

 

キリストさん
キリストさん

この記事を書いているわたし自身は、この世界が罪と悲惨の世界であるという聖書の教えがこの世界のリアルと一致し、説明してくれるところに説得力を感じました。


この世界とその中にいる人間は、控えめにいっても、どこかしら救いを必要としているのではないでしょうか?

罪からの救い

神の子イエスがこの世に生まれたのは、わたしたちを罪から救うためでした。

神といっしょに生きるべく創造されたわたしたちは、神から離れた状態では心の空しさを感じます。

わたしたちの心をジグソーパズルにたとえると、ピースの欠けている状態です。

ジグソーパズル

ジグソーパズル

何とかその欠けた部分を埋めようと、他の人間や何かを探しますが、神というピースがピッタリはまる部分に他の誰かや何かをあてはめようとしても上手くいくことはありません。

結局は空虚な思いだけが後に残ってしまうのです。

的を外して生きているわたしたちを人生の正しい目標である神のもとに連れ戻し、わたしたちが今から永遠に神といっしょに生きる祝福された人生を送ることができるように、イエスはこの世に来たのです。

イエスはわたしたちの身代わりに十字架にかかり、本来はわたしたちが経験するはずだった罪の罰をその身に受けて、死にました。

そのおかげで、イエスを信じる人は誰でも、罪をゆるされ、創造主の子どもとなって生きていくことができるようになったのです!

復活の希望、世界の回復と完成

イエスの罪からの救いは、わたしたちの魂だけを救うものではありません。

日本人は一般的に、宗教は魂の救いを与えると考えているでしょう。

もちろん、神の子、救い主イエスはわたしたちの魂を救ってくれます。

ただし、わたしたちの霊だけではなく、わたしたちの身体も救ってくれるのです。

ここがキリスト教の救いのユニークな点です。

創造主は霊と身体を持つ人間を造りました。

イエスは霊と身体を持つわたしたちの半分(魂)だけを救うのではなく、全て(魂も身体も)を救ってくれるのです。

わたしたちの魂に罪のゆるしを、身体に復活を与えてくれるのです。

 

 

女性
女性

復活なんて、現実にありえないでしょう?


しかし、わたしたちの魂だけが救われるなら、結局、わたしたちの半分以下しか救われないことになります。

生まれてから今まで、わたしたちはすべてのことを身体を通して経験してきました。

目を通して見て、耳を通して聴いて、舌によって味わい、鼻によってにおいをかぎ、皮膚を通して感じてきました。

魂だけの状態で生きるなんて、誰も一度もしたことがありません。

わたしたちの五感のすべてが永遠に失われ、魂だけで生きなくてはならないなんて、少なくともわたしたちの半分以上がなくなっている状態です。

しかも、そんな状態で永遠に生き続けたい人がいるでしょうか?

身体の救い(復活)を別にした魂だけの救いは、それぐらい魅力のないものです。

果たして救いという名に値するかどうか疑問です・・・。

イエス・キリストは十字架で死んだ三日目に復活することによって、わたしたち人類に復活の希望を与えてくれたのです!

神の子イエスは信じる者をよみがえらせてくれるのです。

さて、イエスはわたしたちの魂だけではなく、身体も救ってくれるとお伝えしましたが、イエスの救いの全体像はさらに大きく、包括的なスケールを持っています。

イエスは再び戻って来るとき、神の子としての力によって、罪と悲惨に満ちたこの世界を造り変えてくれるのです!

神が元々創造した良い世界に回復するだけではなく、新しい永遠の世界へと完成してくれるのです。

永遠の世界

永遠の世界

イエスはわたしたちの魂と身体を死と滅びから救うだけではなく、わたしたちの永遠の家を用意してくれます。

新約聖書の伝えるイエスの救いに関心のある方は、ぜひ、この記事もご覧ください↓↓

まとめ あなたにとってイエス・キリストは何者ですか?

イエス・キリスト

イエス・キリスト

最後までお読みくださり、ありがとうございました。いかがでしたか。

この記事では、

・誕生から昇天までのイエスの生涯

・イエスとは何者なのか?

・イエスは何をしたのか?

について解説してきました。

 

女性
女性

イエス・キリストって、どんな人?何をしたの?


この問いの答えを見つけることができたことでしょう。

さて、イエス・キリストが弟子たちを連れて各地を巡回した後のことです。

ピリポ・カイザリア地方に行ったとき、イエスは弟子たちに尋ねました。

 

イエス
イエス

人々はわたしをだれと言っているか。

 

ペテロ
弟子たち

民衆に強烈なインパクトを与えたバプテスマのヨハネが生き返ったんじゃないかとか、旧約聖書の偉大な預言者たちが再び来たって、みんなうわさしていますよ。


その後で、今度は弟子たちにこう尋ねました。

 

イエス
イエス

それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。


それまでイエスについてきて、その教えや偉大な奇跡を目撃してきた弟子たちを代表して、ペテロがこう答えました。

 

ペテロ
ペテロ

あなたこそ、生ける神の子キリストです。


イエスの弟子たちがイエスを神の子、救い主と公に信仰告白したのは、このときが初めてでした。

それ以来、約2000年間、キリスト教会はイエスを神の子、救い主と告白し、世界に伝えています。

今も生きている神の子イエスはあなたにも尋ねています。

 

イエス
イエス

それでは、あなたはわたしをだれと言うか。


この質問は、この世界で、そしてあなたの人生にとって
最も重要で、永続的な影響を与える問いです。

多くの日本人は、この記事を読む前のあなたと同じく、イエスを道徳の教師とだけ見なしているでしょう。

しかしイエスが尋ねているのは、あなたです。

あなた自身はイエスに何と答えるでしょうか?

決めるのはあなた自身なのです。

あなたがイエスを神の子、救い主と信じるなら、あなたの人生は決定的に変わります。

どんな人格改造マニュアルを読んだり、セミナーに参加しても経験できないほどに。

なぜなら、イエスを信じるとき、イエスの十字架の犠牲のおかげであなたの罪はゆるされ、あなたは創造主の子どもとなり、今から永遠に神に祝福された人生を送ることができるからです。

神の子イエスは必ずあなたのこれからの人生を導き、どんなときにもいっしょにいて、助け、やがてあなたを天国と永遠の命に連れて行ってくださいます。

あなたがイエスを神の子、救い主と信じて、神に祝福された新しい人生を送ることを、わたしは心から願っています。

もしイエスを信じる助けが必要なら、どうぞお問い合わせフォームからわたしに連絡してください。

イエスを信じる手助けをいたしますし、クリスチャンとしてどのように生きていったらいいかもお話しできます。

イエスについてもっと知りたい方は、ぜひ、他の記事も読んでみてください↓↓

ABOUT ME
キリストさん

                                   ● クリスチャンの家に生まれ育ち、プロテスタントの牧師になるための神学校卒業後、約20年間牧師として教会で働く。
                                   
● 2024年、キリスト教の素晴らしさを伝えるためにこのブログを開始。

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