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マルコによる福音書とは? 【内容をわかりやすく解説】

聖書

 

女性
女性

マルコによる福音書について教えてください。

今回はこんなリクエストにお答えします。

本記事の内容

  • 誰が書いたの?【著者】
  • いつ、どこで、誰のために書かれたの?【執筆年代、場所、読者】
  • 何のために書かれたの?【執筆の目的】
  • 何を強調しているの?【特徴】
  • マルコによる福音書はどんな流れになっているの?【アウトライン】
  • なぜイエスは自分がキリストであることを秘密にしようとしたのか?
  • 福音書の結びの問題
  • マルコによる福音書から何を学べるのか?【わたしたちへのメッセージ】

本記事の信頼性

  • 筆者は、クリスチャン歴40年以上
  • 約20年間の牧師としての経歴
  • キリスト教の主な著作を読んで得た知識

 

キリストさん
キリストさん

この記事を読むと、マルコによる福音書についてざっくりと分かります。

 

カンタンに解説しますので、ぜひ、最後までご覧ください。

マルコによる福音書とは?

福音書の著者マルコのイコン(1657年) Public domain

福音書の著者マルコのイコン(1657年) Public domain

マルコによる福音書とは、新約聖書の最初にある4つの福音書の1つです。

福音書はイエス・キリストの言葉と行いを記した書であり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書があります。

他の3つの福音書と同じく、マルコによる福音書はイエス・キリストが神の子、救い主であると証言しています。

マルコによる福音書は最初に書かれた福音書だというのが、聖書学の定説です。

マルコによる福音書を理解するためには、実際に読んでいただくのが一番ですが、マルコによる福音書の理解に役立つことを解説していきます。

誰が書いたの?【著者】

翼のあるライオンに耳を澄ませる福音書の著者マルコ、ロルシュの黄金写本のイメージ21 Public domain

翼のあるライオンに耳を澄ませる福音書の著者マルコ、ロルシュの黄金写本のイメージ21 Public domain

初期のキリスト教著述家たちの証言

マルコによる福音書自体には著者が誰なのかは書かれていませんが、キリスト教会は伝統的にマルコが福音書の著者だと考えてきました。

初期の多くのキリスト教著述家たちはマルコが福音書の著者だと主張しており、特に重要なのは、紀元130年頃までヒエラポリス(現在のトルコ)の主教であったパピアスの記述です。

「長老はかつてこう言っていた。『マルコはペテロの通訳となり、主が語り、行なったことについてペテロが思い出した全てを、順を追ってではないが、正確に書き記した』」(エウセビオス『教会史』)

マルコ・ヨハネについて

福音書の著者マルコは、新約聖書の使徒行伝12:12の「マルコと呼ばれているヨハネ」であると考えられています。

マルコは使徒パウロとバルナバの第一次伝道旅行についていきましたが、途中で離脱しました(使徒行伝13:13)

そのため、パウロは第二次伝道旅行を計画したとき、マルコをつれていこうとするバルナバに反対し、パウロとバルナバは激論になり、結果、パウロとバルナバは別行動をすることとなりました。

一度は失敗したマルコでしたが、従兄のバルナバによって支えられて立派な伝道者に成長し、晩年のパウロがマルコを高く評価する程になったのです。

ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。      (テモテへの第二の手紙4:11)

※「わたし」とは、使徒パウロのことです。

マルコは晩年のパウロの働きを助け、パウロの殉教後は、パピアスが証言しているように、ペテロの通訳として、ペテロが思い出したことを書き記しました。

ペテロの第一の手紙5:13によると、マルコは使徒ペテロとともにローマにおり、ペテロはマルコのことを「わたしの子」と呼んでいます。

マルコはペテロの伝道によってクリスチャンになったか、あるいはペテロとマルコには師弟関係があったのでしょう。

このように、マルコは使徒パウロと使徒ペテロの両方から影響を受け、使徒ペテロから聞いたことを中心として最初の福音書を書いたのです。

いつ、どこで、誰のために書かれたの?【執筆年代、場所、読者】

皇帝ネロ

皇帝ネロ

マルコによる福音書の執筆年代は、紀元50年代後半~60年代です。

特に、マルコによる福音書が

  • イエス・キリストの苦しみ
  • イエスの弟子が払う代価

を強調しているため、ローマ皇帝ネロがローマ大火(紀元64年)の責任をクリスチャンたちに負わせて残酷な迫害を行った頃か、あるいはその後の時期ではないかと考えられています。

使徒ペテロもネロ帝の迫害によって殉教したと言われています。

ペテロの死後、マルコはローマ異邦人(特にローマの)クリスチャンたちのために福音書を執筆したのでしょう。

マルコが異邦人のために福音書を書いたことは、

  • アラム語の表現をギリシャ語に翻訳していること
  • 食事の前に手を洗うユダヤ教の慣習を福音書の中でわざわざ説明していること

などから明らかです。

何のために書かれたの?【執筆の目的】

パスクアーレ・オッティーノ「聖マルコが聖ペトロの命令で『福音書』を書く」(17世紀) Public domain

パスクアーレ・オッティーノ「聖マルコが聖ペトロの命令で『福音書』を書く」(17世紀) Public domain

マルコが福音書を執筆した目的は3つあります。

①イエスの言葉と行いの記録を残すため。
②イエスがどんな方かを伝えるため。
③イエスの弟子としての歩みについて教えるため。

① イエスの言葉と行いの記録を残すため。

使徒ペテロをはじめとするイエスの目撃証人たちが死んでいった状況の中で、イエスの言葉と行いを伝える福音書の執筆は不可欠でした。

クリスチャンたちがイエスの福音を世界に伝えていくためにも、福音の内容を書物の形でまとめ、クリスチャンたちにイエスの福音をよく知ってもらう必要がありました。

イエス・キリストの福音が時と場所を超えて広まってゆくために、書物の形で後の世代に残す必要があったのです。

② イエスがどんな方かを伝えるため。

マルコによる福音書はイエスが神の子であることを証言しています。

ただ、イエスは当時のユダヤ人が期待していたような救い主、すなわち、ローマ帝国の圧政からユダヤ民族を解放する軍事的指導者ではありませんでした。

イエスはわたしたちの罪のために苦しみを受ける神の子であると、マルコによる福音書は強調しています。

③ イエスの弟子としての歩みについて教えるため。

イエスの弟子たちは最初にユダヤ教の指導者たちから迫害を受けました。

そして、おそらく福音書執筆当時、ローマにいたクリスチャンたちはローマ皇帝ネロによる激しい迫害の時代に生きていました。

イエスが苦しみを通して栄光に入ったように、イエスの弟子としての歩みには苦しみが伴うのです。

マルコはそのことをクリスチャンたちに伝え、

マルコ
マルコ

今あなたがたはイエスが通った道を通り、イエスが経験した苦しみと同じ苦しみを経験している。

 

だから、イエスは必ずあなたがたを支えてくださる。

と励ますために福音書を執筆したのです。

何を強調しているの?【特徴】

熱病にかかっていたシモンのしゅうとめを癒すイエス

熱病にかかっていたシモンのしゅうとめを癒すイエス

マルコによる福音書は、

①イエスの行動
②目撃証言
③イエスの受難
④イエスの弟子であることの意味

を強調しています。

① イエスの行動

マルコによる福音書はイエスの行動を強調しています。

マルコによる福音書には「すぐ」(ギリシャ語:εὐθὺς ユースス)という言葉がよく出てきて、イエスは何かをした後、「すぐ」次の行動をするのです。

イエスは常に動き、人々を癒し、悪霊を追い出し、人々を教えます。

他の福音書と比べると、マルコによる福音書にはイエスの長い教えが記されておらず、イエスの行動を強調しているのです。

➁ 目撃者の証言

マルコの福音書では、様々な場面の詳しい状況が述べられています。

たとえば、イエスが5つのパンと2匹の魚を奇跡的に増やして、男性だけで5000人の群衆を満腹にさせる奇跡は4つの福音書に記されていますが、イエスが人々を座らせたのは「青草」の上だったとマルコによる福音書にだけ記されているのです。

そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
(マルコによる福音書6:39)

これは明らかに余分な情報で、あってもなくても福音書の目的には影響がありません。

こうした情報がいくつも含まれているのは、実際にその場に居合わせた人が語った目撃証言に基づいているからです。

そして、マルコによる福音書には、過去の出来事をあたかも今起こっているかのように描く「歴史的現在形」という文法が、元のギリシャ語で使われています。

目撃証人が過去の出来事を生き生きと伝えるための手法です。

このように、マルコによる福音書はイエスを直接目撃した証言に基づいているため、所々に生々しい表現が見られるのです。

③ イエスの受難

マルコによる福音書はイエスの苦しみを強調しています。

マルコによる福音書の3分の1はイエスの最後の1週間に費やされており、「導入の長い受難物語」と言われる程です。

④ イエスの弟子であることの意味

マルコによる福音書は、イエスの弟子であるとはどういうことかを強調しています。

イエスは自分の受難を3度予告しましたが、マルコによる福音書はその度にイエスの弟子であることの意味について教えています。

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、

しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、

イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。

また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
(マルコによる福音書8:31-38)

※「人の子」とは、イエスが自分自身のことを言うときに使った言葉です。

それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。

しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。

それから彼らはカペナウムにきた。そして家におられるとき、イエスは弟子たちに尋ねられた、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」。

彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていたからである。                

そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。
(マルコによる福音書9:31-35)

 

「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。

また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。

さて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします」。

イエスは彼らに「何をしてほしいと、願うのか」と言われた。

すると彼らは言った、「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。

イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。

彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。

しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。

十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、

あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。   (マルコによる福音書10:33-45)

マルコによる福音書はイエスの受難とイエスの弟子であることの意味を結び付けることによって、イエスの弟子としての生き方とは、苦しみを通して栄光に入ったイエスの道を歩むことだと教えているのです。

イエスは仕えられるためではなく仕えるためにこの世に来ました。

イエスの弟子の歩みも、イエスに倣(なら)って自らをへりくだらせ、他の人々に仕える生き方なのです。

マルコによる福音書はどんな流れになっているの?【アウトライン】

マルコによる福音書のアウトラインは以下の通りです。

1:1-13   働きの準備
1:14-3:6  ガリラヤ初期伝道
3:7-8:30  伝道の拡大
8:31-10:52 十字架への道
11:1-13:37 エルサレムでの活動
14:1-15:47 イエスの受難
16:1-8   イエスの復活

①1:1-13 働きの準備

聖霊が鳩のようにイエスの上に降る

聖霊が鳩のようにイエスの上に降る

旧約聖書の預言通り、洗礼者ヨハネがイエスの先駆者として現れます。

イエスがヨハネから洗礼を受けると、天が裂けて聖霊が鳩のようにイエスに降り、イエスこそ神の子であるという宣言が天から聞こえるのでした。

イエスは公の活動を開始する前に荒野で40日間サタンの誘惑を受け、勝利します。

②1:14-3:6 ガリラヤ初期伝道

漁師たちを弟子にするイエス

漁師たちを弟子にするイエス

イエスは弟子たちを集めつつ、ガリラヤ中の悪霊や病気に苦しむ人々を助け、神の国の福音を人々に教えました。

イエスの人気は高まりますが、同時に宗教指導者であったパリサイ人や律法学者から安息日の守り方などで憎まれ、3:6では早速イエス殺害計画が立てられることとなります。

③3:7-8:30 伝道の拡大

5000人の給食の奇跡を行うイエス

5000人の給食の奇跡を行うイエス

イエスは12使徒を選び、伝道に派遣します。

イエス自身、さらに広範囲に出かけて行って伝道し、ガリラヤ湖の嵐を静めたり、会堂司の娘を生き返らせたり、5000人の群衆を養うなど、数々の偉大な奇跡を行いました。

しかし宗教指導者たちはイエスが悪霊のかしらベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると非難し、宗教指導者たちのイエスへの憎しみは高まっていきます。

イエス一行がピリポ・カイザリヤ地方に行ったとき、ペテロは弟子を代表してイエスがキリスト(救い主)だと告白するのでした。

ペテロの信仰告白がマルコによる福音書のターニングポイントです。

④8:31-10:52 十字架への道

神の子としての本来の栄光を弟子たちに見せるイエス

神の子としての本来の栄光を弟子たちに見せるイエス

ペテロの信仰告白の後、イエスは自分が苦しみを受けて死に、三日目によみがえることを弟子たちに初めて語りました。

その頃のユダヤ人と同じく、ペテロをはじめとする弟子たちもキリスト(救い主)は政治的解放者と考えていたため、イエスの言葉は受け入れがたいものでした。

しかしイエスは、その後も自分が苦しみを受けることを弟子たちに2回予告します。

そのたびにイエスは、自分の弟子となることはしもべとして仕えることであると弟子たちに教えたのです。

イエスは山の上で神の子としての本来の栄光を弟子たちに見せ、エルサレムに向けて旅をしながら、教えと癒しを行いました。

⑤11:1-13:37 エルサレムでの活動

エルサレムに入るイエス

エルサレムに入るイエス

群衆は歓呼の声を上げてイエスをエルサレムに迎えます。

イエスはエルサレムで宗教指導者たちと論争し、弟子たちに将来起こることを告げるのでした。

⑥14:1-15:47 イエスの受難

最後の晩餐

最後の晩餐

過越の祭りの食事(最後の晩餐)を弟子たちとしたイエスは、ゲツセマネの園で祈りました。

イエスは自分が犠牲になる以外に人類を罪から救う神の計画が実現する道がないことを最終的に確認し、十字架への道を歩む覚悟を決めます。

その後、イエスは裏切者のユダに率いられた群衆によって捕らえられ、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)で裁判を受け、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡され、十字架につけられました。

十字架上のイエスを人々はののしりました。

しかしイエスは決して十字架から降りず、全人類の罪に対する罰を身代わりに受けて死に、罪からの救いを成し遂げたのです。

⑦16:1-8 イエスの復活

天使がイエスは復活したと女性の弟子たちに告げる

天使がイエスは復活したと女性の弟子たちに告げる

女性の弟子たちがイエスの墓に行くと、天使が現れ、イエスは復活したことを告げました。

女性の弟子たちは他の弟子たちにこの良い知らせを伝えるように言われますが、恐ろしくて誰にも何も言わなかったというところで、マルコによる福音書は終わっています。

なぜイエスは自分がキリストであることを秘密にしようとしたのか?


マルコによる福音書を読むと、自分がキリスト(救い主)であることを誰にも言わないようにと、イエスが弟子たちに命じている個所を見つけることができます。

たとえば、ペテロがイエスはキリストであると信仰告白したとき、イエスは自分がキリストであることを黙っているようにと言いました。

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。

するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。              (マルコによる福音書8:29-30)

イエスの姿が山上で変貌(へんぼう)し、イエスが神の子としての本来の栄光を弟子たちに見せた後、イエスは再び弟子たちに口止めしました。

一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
(マルコによる福音書9:9)

どうしてイエスは自分がキリストであることを秘密にしようとしたのでしょうか?

イエスは人々がイエスを救い主と信じて救われることを望んでいるのではなかったのでしょうか?

もちろん、イエスは人々がイエスを救い主と信じて、罪から救われることを願っていました。

ただ、当時のユダヤ人たちは、神が救い主に関して旧約聖書の中で約束し、預言していた言葉を誤解していました。

その頃のユダヤ人の間では、キリスト(「油注がれた者」という意味で、神がやがて送ると約束した救い主の称号)は、政治的・軍事的な解放者を意味したのです。

異邦人のローマ皇帝の支配下にあったユダヤ人たちは、いつか神の送るキリストが神の選民である自分たちをローマの圧政から超自然的な力で解放してくれると期待していたのでした。

イエスはすでに奇跡を行う人として有名になっていたため、もしそういう状況の中でイエスがキリストだと知れ渡れば、イエスはローマに反乱を起こすためのリーダーとして祭り上げられる危険性があったのです。

実際、イエスが男性だけで5000人の群衆を満腹にさせた奇跡を行ったとき、人々はイエスを王にして、ローマに反旗を翻す指導者にしようとした程でした。

加えて、歴史の事実として、それから何十年か後には、ユダヤ人はローマ帝国に反乱を起こしているのです。

イエスは自分がこの世に来たのは、ローマ帝国の支配から一民族を解放するためではなく、ローマよりも恐ろしい罪と死とサタンの支配から全人類を救い出すためだと自覚していました。

イエスはこの世の王たちのように人々から仕えられるためにではなく、人々を罪から救うために苦難のしもべとして仕えるためにこの世に来たのです。

ですから、わたしたちの罪を負って十字架で罪の罰を身代わりに受けて死に、三日目によみがえるまでは、自分のことを誰にもしゃべらないようにと、イエスは弟子たちに命じました。

現代のわたしたちには、なぜイエスが自分の正体を口外しないように弟子たちに命じたのかは福音書を読んだだけでは分かりづらいのですが、背景にあったのはこのような緊迫したシチュエーションだったのです。

福音書の結びの問題

フェルディナント・ボル「墓の聖女たち」(1644年)Public domain

フェルディナント・ボル「墓の聖女たち」(1644年)Public domain

マルコによる福音書16:1-8の後にはいくつかの結びの言葉がありますが、今回はその中の長い結びの言葉を取り上げます。

当ブログで使用している聖書協会口語訳聖書の場合、この長い結びは16:1-8の後に〔〕でくくられた16:9-20として印刷されています。

その内容は、イエスが弟子たちに何度か姿を見せること、全世界への宣教命令、そしてイエスの昇天です。

長い結びは、現代の聖書では通常欄外に記載されるか、〔〕に入れられて福音書の本文と区別されています。

長い結びが福音書本来の文章であると考える理由としては、

  • 多くの写本に見られること
  • 2世紀前半のものであること

などがあります。

しかし、長い結びの個所が福音書の本文ではないと考える理由の方が優勢です。

  • 最も重要な二つの写本(アンシャル体のאとB)と他のいくつかの写本にはないこと。
  • 古代の聖書翻訳家ヒエロニムスと教会史を執筆したエウセビオスによると、当時入手可能な最良の写本にはマルコによる福音書の長い結びはなかったこと。
  • 長い結びには、マルコによる福音書には見られない単語や表現が含まれていること。
  • 内容が他の福音書に記されているイエスの復活後の出現のストーリーと似ていること。長い結びは、マルコによる福音書が16:1-8で終わっているのは不自然だと考えた人によって、他の福音書を基にして構成されたと考えられる。

では、長い結びがマルコによる福音書の本文ではないなら、どうしてマルコによる福音書は16:1-8で唐突な終わり方をしているのでしょうか?

3つの理由が考えられます。

  1. マルコ自身は続きを書くつもりだったが、書けない事情が生じた(たとえば、逮捕され、殉教した?)。
  2. マルコは16:8以降にきちんと結びを書いたが、福音書が伝わるプロセスで紛失した(たとえば、福音書の写本の最後のページが偶然に引き裂かれた)。
  3. マルコは元々、福音書を8節で完結させるつもりだった。

聖書学者たちの間では、現在、③の可能性が最も高いと考えられています。

マルコによる福音書16:1-8までを読んだ読者は、イエスが復活したことをすでに知っています。

最後に書かれている女性の弟子たちの混乱と恐れと驚きは、イエスの復活が何を意味するのか、読者たちに深く考えさせるのです。

福音書の著者マルコは、読者がイエスの復活の意味を尋ね、その答えを見つけることを願ったのです。

マルコによる福音書から何を学べるのか?【わたしたちへのメッセージ】

ディエゴ・ベラスケス「十字架上のキリスト」(1632年)Public domain

ディエゴ・ベラスケス「十字架上のキリスト」(1632年)Public domain

マルコによる福音書から学べることを2つあげます。

① イエスはわたしたちを罪から救うために苦しむ神の子、救い主

マルコによる福音書はイエスが神の子、救い主であると教えています。

ただ、マルコによる福音書が教えるイエスは、ローマの圧政から人々を救う政治的解放者・軍事的指導者ではありません。

全人類を罪とその結末である永遠の滅びから救うために、自らを犠牲として苦しみを受けるしもべとしての神の子、救い主なのです。

➁ イエスの弟子たちは神と人への愛に生きる

神の子イエスは、生まれつき創造主を無視して生きているわたしたちをそれでも愛して、自らの命を捨ててくださいました。

イエスの弟子たちはイエスに倣(なら)って生きる者たちです。

イエスが神と人とを愛し、しもべとして仕えて生きたように、イエスの弟子たちは神とイエスのため、他の人々のために仕えて生きるのです。

イエスが苦難のしもべとして生きたように、イエスの弟子としての歩みにも苦しみが伴います。

しかしイエスが苦しみを通って栄光に入ったように、イエスの弟子たちの将来には永遠の栄光が待っています。

そして、そこに至るプロセスにおいても、イエスが一人ひとりの弟子たちを支えてくださるのです。

まとめ:マルコによる福音書を読んでみましょう!

ライオンを見つめる福音書の著者マルコ 823年頃、Public domain

ライオンを見つめる福音書の著者マルコ 823年頃、Public domain

最後までお読みいただき、ありがとうございました。いかがでしたか。

この記事ではマルコによる福音書について、

  • 誰が書いたの?【著者】
  • いつ、どこで、誰のために書かれたの?【執筆年代、場所、読者】
  • 何のために書かれたの?【執筆の目的】
  • 何を強調しているの?【特徴】
  • どういう風な流れになっているの?【内容構成】
  • なぜイエスは自分がキリストであることを秘密にしようとしたのか?
  • 福音書の結びの問題
  • マルコによる福音書から何を学べるのか?【わたしたちへのメッセージ】

を解説してきました。

マルコによる福音書についておおまかにお分かりいただけたことでしょう。

マルコによる福音書は、

使徒行伝に登場する「マルコと呼ばれているヨハネ」によって、

紀元50年代後半~60年代のローマで異邦人クリスチャンのために、

イエスの言葉と行いを記録するため、

イエスがわたしたちの罪のために苦しむ神の子であると知らせるため、

イエスの弟子となることは神と人を愛し、仕える生き方であることを教えるため

に書かれました。

ぜひ、次はマルコによる福音書を実際に読んでみてください。

一番短い福音書ですから、30分程度で読み終えることができます。

あなたがマルコによる福音書を通して神の子、救い主イエスと出会い、イエスを信じる弟子としての真に幸いな人生を送るように心から願っています。

この記事を読んで、イエス・キリストや聖書についてもっと知りたい方は、ぜひ、他の記事も読んでみてください↓↓

 

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キリストさん

                                   ● クリスチャンの家に生まれ育ち、プロテスタントの牧師になるための神学校卒業後、約20年間牧師として教会で働く。
                                   
● 2024年、キリスト教の素晴らしさを伝えるためにこのブログを開始。

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